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用語集 / 行政法 / 国家補償の谷間

国家補償の谷間(予防接種禍)とは

こっかほしょうのたにま

行政法 国家賠償・損失補償

国家補償の谷間とは、適法で過失もない公権力の行使によって生命・身体に被害が生じ、違法と故意過失を要件とする国家賠償にも、財産上の損失を前提とする損失補償にも乗らない領域です。予防接種の副反応被害が代表例です。

法律で決められた予防接種を受けた子どもに、まれに重い後遺障害が残ることがあります。接種した医師に落ち度がなければ、違法と過失を要件とする国家賠償は使えません。損失補償は適法な行為による損失を補う制度ですが、憲法29条3項は私有財産を前提にしていて、生命や身体の被害を正面から扱っていません。社会全体を感染症から守るために一部の人が犠牲になったのに、どちらの制度からも外れて救済が届かない領域が生じます。これが国家補償の谷間です。この不公平をどう埋めるかが、この項目の中心です。

保健所の予防接種の場面。左に接種を受けた子どもを抱いた父親の男性(札「被接種者の家族」)、子どもに札「重い後遺障害」。中央に先生が裁判官役(札「裁判所」)で立ち、先生の前に左右二つの箱。左の箱の看板「国家賠償:違法+故意過失が要件」、右の箱

谷間とは、国家賠償と損失補償のどちらの要件からも外れる領域です

国家補償の谷間とは、国家賠償と損失補償のどちらの制度でも救済されない領域をいいます。国家賠償は公務員の違法な行為と故意過失を要件とし、損失補償は適法な行為による財産上の損失を対象としますから、適法かつ無過失の行為によって生命や身体に被害が生じた場合は、両方の要件から外れます。予防接種によって重い後遺障害が残った事案が、この問題を意識させた代表例です。予防接種は、社会全体の感染症の蔓延を防ぐために行われるもので、被害を受けた個人は、公共の利益のために犠牲になったとみることができます。それにもかかわらず救済の道がないのは不公平だ、というのがこの議論の出発点です。

  • 国家賠償違法性と故意過失が必要。適法・無過失であれば使えない
  • 損失補償適法な行為による損失が対象だが、条文は財産権を前提にしている
  • 谷間の事案適法・無過失の行為による生命・身体の被害。どちらの要件も満たさない

財産権が補償されるなら、生命・身体はなおさらだという議論があります

谷間を埋める第一の方向が、損失補償による救済です。憲法29条3項が財産上の損失に補償を保障している以上、より重い法益である生命・身体に生じた損失にも当然に補償が及ぶべきだという、いわゆる勿論解釈が主張されてきました。下級審には、予防接種による健康被害について憲法29条3項の類推適用により補償を認めた裁判例がありますが、その控訴審は、損失補償の対象は財産権の侵害の場合に限られるとしてこれを否定しました。最高裁がこの構成を正面から採用したことはなく、国家賠償法1条に基づく責任の成否についてのみ判断しています。憲法29条3項は私有財産を公共のために用いる場合の規定であり、生命・身体への被害にそのまま及ぼせるかには疑問も残ります。条文の文言を超える解釈になるため、判例は踏み込まないままです。憲法13条や25条を手がかりに救済を導く見解もありますが、いずれも具体的な補償額を決める基準を条文から引き出せないという難点を抱えます。「予防接種による副作用被害が問題となった事案では,生命や身体に対する損害であっても損失補償の対象になり得ると主張されました。しかし,このような損失補償による救済を明示的に認めた最高裁判所の判例はありません」という肢は正しいです。

実際の救済は、過失を認定する形の国家賠償で図られてきました

第二の方向が、国家賠償の要件を緩やかに認定して救済する方法です。予防接種の実施に当たっては、接種を受けるべきでない者、すなわち禁忌者を識別するために必要な予診を尽くす義務があります。最判平成3年4月19日は、予防接種によって重篤な後遺障害が生じた場合には、被接種者が禁忌者に該当していたと推定し、接種を担当した医師が予診を尽くさなかったことによる過失を事実上推定する枠組みを採りました。損失補償として構成することが考えられる事案について、「市の保健所で受けた予防接種により個人に後遺障害が生じた場合に,接種した医師の過失が一部推定され,市が損害賠償責任を負う例」が、損害賠償によって解決される例として挙げられています。集団防衛という社会全体の利益のために一部の者に不可避的に被害が及ぶことを特別の犠牲として損失補償で構成する道と、生命・身体への侵害を違法行為と位置づけて損害賠償で解決する道の二つがあり、判例は後者を選んだわけです。過失の推定といっても擬制ではなく、接種を担当した医師が予診を尽くしたことを主張立証すれば覆ります。適法・無過失という前提を崩して国家賠償の土俵に乗せる技法であり、谷間そのものを埋める解決ではありません。

先生が裁判官役(札「裁判所」)で中央の法壇。左に被接種者の父親の男性(札「被害者側」)、右に接種を担当した医師の男性(札「接種を担当した医師」)。法壇の前に三枚の札が矢印でつながる。「重篤な後遺障害が生じた」→「被接種者は禁忌者だったと推定

加害公務員の特定が不要とされたのも、同じ救済の流れです

最判昭和57年4月1日(加害行為者・加害行為の特定)は、予防接種の一連の過程で被害が生じた事案について、具体的にどの公務員のどのような違法行為によるものかを特定できなくても、一連の行為のいずれかに故意又は過失による違法行為がなければ被害は生じなかったといえ、どの行為であっても同一の行政主体が責任を負うべき関係にあるときは、加害行為不特定を理由に責任を免れないとしました。被害者に立証の負担を負わせないための工夫が重ねられてきたことが分かります。接種の適否の判断、問診の実施、事後の観察といった一連の行為のどこに落ち度があったかを、被害者が突き止めることは不可能に近いからです。過失の客観化と加害者の特定の不要が、実質的には谷間を埋める役割を果たしてきました。もっとも、これらは国家賠償の枠内での工夫ですから、どう組み立てても過失を認定できない事案では救済に届きません。そこで議論されてきたのが、過失を問わずに損害を填補する結果責任の考え方です。

現在は、法律に基づく健康被害救済制度が置かれています

立法による解決も進みました。予防接種法は、定期の予防接種等を受けた者が疾病にかかり、障害の状態となり、または死亡した場合に、厚生労働大臣の認定を経て医療費や障害年金、死亡一時金などを給付する健康被害救済の仕組みを定めています。過失の有無を問わずに給付がされる点で、結果責任に基づく救済に近い性格を持ちます。憲法25条の生存権の趣旨を具体化する社会保障の一環と位置づけられ、国家賠償と併存します。谷間の議論は、こうした制度が整うことで実際の必要性は小さくなりましたが、制度のない領域では今も意味を持ちます。給付は法律の定める要件と額によりますから、実際の損害の全額が填補されるとは限りません。給付を受けたうえで、なお残る損害について国家賠償を求めることも可能で、その場合は損益相殺の形で調整されます。制度による救済と裁判による救済は、どちらか一方に限られるものではありません。

戦争損害のように、そもそも補償の対象外とされる領域もあります

谷間と区別すべきなのが、戦争損害のように、憲法29条3項の補償の対象そのものから外されてきた領域です。「日本国が平和条約により連合国に対する賠償義務を承認し,日本国民の在外資産を賠償に充当することに対して国として異議を唱えず承認した結果,在外資産を喪失することになった国民は,憲法第29条第3項に基づき国に補償を求めることができる」という肢は誤りです。最大判昭和43年11月27日(在外資産補償請求事件)は、在外資産の喪失による損害は敗戦という事実に基づいて生じた一種の戦争損害であり、多かれ少なかれ国民のひとしく堪え忍ばなければならないやむを得ない犠牲であって、その補償は憲法29条3項の全く予想しないところで、同項の適用の余地のない問題だとしました。国が政策的に何らかの配慮をするかどうかは別問題として、憲法を根拠に補償を求めることはできないという結論です。最判平成4年4月28日(台湾住民元日本兵戦死傷者の損失補償請求事件)も、補償の要否や在り方は立法府の裁量的判断に委ねられるとしています。谷間は、制度の設計が追いついていないために救済が届かない領域であるのに対し、戦争損害は、性質上そもそも補償の対象としない判断がされてきた領域です。特定の人に課された特別の犠牲を全体の負担で調整する損失補償の考え方からすると、国民が等しく負担した戦争の犠牲は、はじめから枠の外にあるわけです。

先生が裁判官役(札「裁判所」)で中央の法壇。左に元在外資産所有者の男性(札「在外資産を失った国民」)が「平和条約」と書かれた書面を指して、吹き出し「国が在外資産を賠償に充てることを承認したせいで財産を失った。憲法29条3項で補償を」。法壇の

憲法 第29条 第3項

私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

論文ではこう使う

論文では、まず国家賠償と損失補償の要件を並べ、当該事案がどちらの要件も満たさないことを示して問題の所在を明らかにします。そのうえで、憲法29条3項の勿論解釈による損失補償の構成を紹介し、最高裁がこれを認めた例はないことを指摘します。実務的な解決として、予診義務を規範化し、重篤な副反応が生じた事実から禁忌者該当性と予診義務違反を推認する筋道を立て、過失を認定して国家賠償を導きます。加害公務員を特定できない場合には、判例の規範により特定は不要であると述べます。最後に、予防接種法の救済給付との関係を整理し、立法による解決の意義に触れます。

試験ではこう問われる

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