過失犯の構造(旧過失論・新過失論・危惧感説)とは
かしつはんのこうぞう
過失犯の構造とは、過失の本質を何に求め、過失を犯罪の体系のどこに位置づけるかという問題です。旧過失論は予見可能性を、新過失論は結果回避義務違反を過失の本質とし、危惧感説は新過失論を前提に具体的な予見可能性を不要とします。
自転車で歩行者にぶつかってけがをさせたとき、「まさか人が出てくるとは思わなかった」と言えば責任を免れるわけではありません。気をつけていれば事故を予想でき、速度を落とすなどして避けることができたのなら、不注意を責められます。刑法は故意のない行為を原則として処罰しませんが、このような不注意で重大な結果を生じさせた場合に限って過失犯として処罰します。その不注意の中身を、予想しなかったことに求めるのか、避ける措置を採らなかったことに求めるのかで、過失犯の組み立て方が変わります。
過失の本質を予見可能性に求めるか、結果回避義務違反に求めるかで見解が分かれます
過失とは、注意義務に違反することをいいます。注意義務の中身は、結果の発生を予見すべき義務と、結果の発生を回避すべき義務からなります。このどちらを過失の本質とみるか、過失を犯罪の体系のどこに位置づけるかについて、旧過失論、新過失論、危惧感説が対立します。短答では、各説の内容を示したうえで、各説からの帰結と各説に向けられる批判が問われます。
- 旧過失論過失の本質は、精神を緊張させれば結果の発生を予見できたのに予見しなかったことにあるとします。過失は責任の要素であり、故意犯と過失犯は客観面では共通すると考えます
- 新過失論過失の本質は、社会生活上必要な注意を怠り、結果回避のための適切な措置を採らなかったことにあるとします。過失犯は構成要件該当性と違法性の段階から故意犯と異なると考えます。前提として具体的な予見可能性を要求します
- 危惧感説過失の本質は新過失論と同じく結果回避義務違反にあるとしますが、具体的な予見可能性は不要で、何らかの結果回避措置を命じるのが合理的といえる程度の危惧感があれば足りるとします
旧過失論は、故意犯と過失犯は客観面が共通で、責任の段階で区別されると考えます
旧過失論は、結果を発生させた行為が違法であることは故意犯と同じであり、違いは行為者の内心にあると考えます。したがって、「A説は、故意犯と過失犯は客観面が共通であり、両者は主観面において区別されるとの見解と親和的である」という記述は、旧過失論の説明として正しいです。旧過失論に対しては、「予見可能性のみで過失を認めると,過失犯の処罰範囲が広がりすぎる」という批判が向けられます。自動車の運転のように、それ自体危険を伴う行為からは死傷の結果が生じ得ることを容易に予見できるので、事故が起きれば常に過失が認められかねないからです。そのため、「自動車運転はそれ自体危険な行為であり、いかなる運転行為からも死傷結果が生じ得る以上、容易に予見可能性が認められ、過失犯の成立範囲が広くなりすぎる」という批判を「B説に対して」向ける記述は、新過失論への批判としては成り立ちません。これは旧過失論に対する批判です。この批判に対して、旧過失論の側からは、実行行為の内容として結果発生の実質的な危険性を要求することで処罰範囲を限定できるという反論がされています。また、旧過失論からも、結果を回避できる可能性がなかった場合には過失犯は成立しません。「A説からは,結果の回避可能性の存在は過失犯の成立において必要ではないことになる」という記述は、旧過失論からの帰結として正しくありません。
新過失論は、過失犯は構成要件該当性と違法性の段階から故意犯と異なると考えます
新過失論は、社会生活に必要な行為には一定の危険が伴うことを前提に、基準となる行為から逸脱したことを過失の中身とします。法が求める結果回避措置を採っていれば、結果が発生しても行為は違法でないことになります。「B説は,過失犯は,行為の責任だけでなく,構成要件該当性と違法性においても故意犯と異なるものであるとの考え方と矛盾しない」という記述は、新過失論の説明として正しいです。新過失論に対しては、「結果回避のための適切な措置」の内容について、「行政取締法規が定める義務に帰着せざるを得ず,刑法上の過失犯が行政取締法規の結果的加重犯となってしまう」という批判が向けられます。「結果回避のための適切な措置と行政取締法規が定める義務とを区別するのは困難であり、行政取締法規の義務違反が刑法上の過失になってしまう」という批判も、新過失論に対するものです。道路交通法の定める義務に違反したことがそのまま刑法上の過失になるのでは、過失犯が取締法規違反に結果が加わっただけの犯罪になってしまうという指摘です。
危惧感説は具体的な予見可能性を不要とし、責任主義に反するとの批判を受けます
危惧感説は、未知の危険を伴う分野での事故に対応するため、結果に対する具体的な予見可能性がなくても、何が起きるか分からないという危惧感があれば結果回避措置を義務づけてよいとします。この説に対しては、「構成要件該当事実に関する具体的な予見可能性がないにもかかわらず、漠然とした危惧感だけで過失責任を追及することは責任主義に反する」という批判が向けられます。予見できない結果について責任を問うことになり、結果責任を認めるに等しいという指摘です。裁判例も、過失犯の成立に必要な予見可能性は、内容の特定しない一般的・抽象的な危惧感ないし不安感を抱く程度では足りないとする立場をとっています。
信頼の原則は、旧過失論では予見可能性の判断で、新過失論では結果回避義務の判断で考慮されます
信頼の原則は、他人が適切な行動をとると信頼するのが相当な場合に、その他人の不適切な行動によって生じた結果について過失責任を否定する考え方です。新過失論からは、相手の適切な行動を信頼してよい場合には、相手の不適切な行動に備えた結果回避措置を採る義務がないと説明されます。旧過失論からも、相手が不適切な行動に出ることまで予見する義務はないとして、予見可能性の問題として説明できます。「A説の立場からは,いわゆる信頼の原則は,予見可能性が否定される場合の一部を類型化したものと理解することができる」という記述は、旧過失論からの説明として正しいです。したがって、「A説からは、いわゆる信頼の原則を過失犯に適用する余地はない」という記述は、旧過失論からの帰結として正しくありません。
刑法38条1項
罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
論文ではこう使う
論文では、過失犯を、注意義務の内容の特定、注意義務違反、結果と因果関係の順に書きます。まず、過失とは予見可能性を前提とした結果回避義務違反をいうと示します。次に、問題文の事実から、行為者がどのような結果とその因果経過の基本的部分を予見できたかを認定します。そのうえで、その予見を前提に、行為者の立場に置かれた一般人であればどの時点でどのような措置を採るべきであったかを具体的に特定します。たとえば、見通しの悪い交差点に入る前に徐行して左右の安全を確認すべきであった、というように書きます。その義務を怠ったことを認定し、最後に、義務を尽くしていれば結果を回避できたかを確認します。見解の対立そのものを長く論じる必要はなく、注意義務の内容を事実に即して特定することに紙幅を使います。
この用語が出た過去問の肢を、正誤を選んで解説で確かめられます。