第9条過去問 30
1日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この条文の過去問 30問
憲法第9条第1項について、国際紛争を解決するための戦争を放棄したものであり、自衛戦争を放棄したものではないとの考え方に立った場合、同条第2項後段について、交戦権は否認されていると解することはできない。
解説
本肢は誤り。憲法9条1項は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定める。この「国際紛争を解決する手段としては」との文言を、伝統的な国際法上の用語法に従って侵略戦争を意味するものと解し、1項は侵略戦争のみを放棄し自衛戦争は放棄していないとするのが、本肢の前提とする限定放棄説である。しかし、この立場に立ったとしても、9条2項後段の交戦権が否認されていると解することは十分に可能である。まず、2項冒頭の「前項の目的を達するため」という文言については、これを1項が戦争の放棄に至った動機ないし理念を一般的に指すものにすぎないと読む理解が有力であり、そのように解すれば、2項の効果が自衛戦争との関係で限定されることはない。また文理の面からみても、この句は前段の戦力不保持にかかると読むのが自然であって、後段の「国の交戦権は、これを認めない」との定めにまで及ぶものではない。いずれの筋道によっても、交戦権は目的のいかんを問わず否認されているという結論を導くことができる。加えて、2項前段が一切の戦力を保持しないと定めている以上、自衛のためであっても戦争を遂行すべき実力自体が存在しないことになり、そこで否認される交戦権には自衛戦争に伴う交戦権も当然に含まれると解される。その帰結として、仮に1項で自衛戦争が放棄されていないとしても、結局は現実にいかなる戦争も行い得ないことになるというのが、通説的な理解である。すなわち、1項につき限定放棄説を採ることと、2項後段が交戦権を無条件に否認していると解することとは論理的に両立し、前者の前提を採用したからといって後者の解釈が排除されるわけではない。本肢は、限定放棄説に立つと交戦権が否認されていると解することはできないと断ずる点で、9条2項の構造を正解していない。よって本肢は誤りである。
判例によれば、憲法第9条は、私法上の行為の効力を直接規律することを目的とした規定ではないため、国の私法上の行為については、実質的にみて公権力の発動たる行為と何ら変わりがないといえるような特段の事情があったとしても、同条が直接適用されることはない。
解説
本肢は誤り。判例(最判平成元年6月20日、いわゆる百里基地訴訟)は、憲法9条は、その憲法規範としての性質からみて、私法上の行為の効力を直接規律することを目的とした規定ではないとした上で、国が行政の主体としてではなく私人と対等の立場に立って私人との間で個々的に締結する私法上の契約は、当該契約が国家統治の基本に関する高度に公共性ないし公益性を有するものであるなど、実質的にみて公権力の発動たる行為と何ら変わりがないといえるような特段の事情のない限り、憲法9条の直接適用を受けず、私人間の場合と同様、憲法98条1項にいう「国務に関するその他の行為」にも該当しない旨を判示した。ここで重要なのは、判例が直接適用を否定する準則を「特段の事情のない限り」という留保を付して定立している点である。すなわち、当該私法上の行為が実質的にみて公権力の発動たる行為と何ら変わりがないといえるような特段の事情が認められる場合には、なお憲法9条が直接適用される余地が残されているのであって、判例は一切の例外を許さない形で直接適用を排斥したわけではない。本肢は、そのような特段の事情があったとしても同条が直接適用されることはないと言い切っており、判例の説示する留保を無視するものである。よって本肢は誤りである。
アメリカ合衆国軍隊の駐留を合憲と解する考え方として、憲法第9条第2項の「戦力」とは、日本が指揮権、管理権を行使し得る戦力を意味し、外国の軍隊はこれに当たらないとするものがあり、最高裁判所は、この考え方を採用している。
解説
本肢は正しい。判例(最大判昭和34年12月16日、いわゆる砂川事件)は、憲法9条2項が保持を禁止した「戦力」とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと判示した。これは、9条2項の名宛人はあくまで日本国であって、日本が指揮・管理し得ない外国軍隊の実力は同項の規律対象外であるとの理解に立つものであり、本肢が述べる考え方そのものである。その上で判例は、憲法9条は日本が主権国として有する固有の自衛権を否定するものではなく、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることを認めているのであって、その手段として他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではないとして、合衆国軍隊の駐留を違憲とはしなかった。さらに同判決は、日米安全保障条約のように主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有する条約については、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り司法審査の範囲外にあるとする、統治行為論的な判断枠組みも併せて示している。本肢の記述は、この判例の立場に沿うものである。よって本肢は正しい。
憲法第9条第2項で否認されている交戦権の内容を、国家が交戦者として有する権利とする国際法上の用例に従って解するのでなく、国家として戦争を行う権利と広く解する見解に対しては、同条第1項の規定との重複が避けられないとの批判がある。
解説
本肢は正しい。憲法9条2項後段は「国の交戦権は、これを認めない。」と定めるが、ここにいう「交戦権」の意義については見解が分かれている。第一は、戦争状態に入った国家が国際法上交戦国として認められる諸権能(敵性船舶の臨検・拿捕、戦利品の取得、占領地における行政権の行使など)を指すとする見解であり、これは「belligerency」という語の国際法上の用例に沿った理解である。第二は、より広く、国家が戦争を行うこと自体の権利(国家が主体となって戦争をなしうる権能)を指すとする見解である。
このうち後者の広義説に対しては、本肢が述べるとおり、9条1項との規定の重複を免れないという批判が向けられている。すなわち、9条1項は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めており、既に国家が戦争をなす権能そのものを放棄しているのであるから、2項後段を「戦争を行う権利の否認」と読むと、1項が放棄したものを2項が改めて否認するという同義反復に陥る。しかも、この批判は1項の解釈いかんを問わず妥当する。1項が一切の戦争を放棄したと解する全面放棄説によれば重複は全面的なものとなるし、1項は侵略戦争のみを放棄したにすぎないと解する限定放棄説によっても、少なくとも侵略戦争の限度では重複が生じることになるからである。
これに対し、前者の狭義説によれば、1項が戦争そのものを放棄する規定であるのに対し、2項は戦力の不保持と併せて、交戦国として国際法上認められる個別の権能をも否認することにより1項の趣旨を徹底・具体化した規定と位置づけることができ、両項の役割分担が明確になる。したがって、広義説に対して1項との重複という批判があるとする本肢の記述は正しい。
判例は、憲法第9条第1項によっても我が国が主権国家として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものでなく、同条第2項は自衛のための戦力の保持まで禁じたものではないから、我が国の平和と安全の維持を目的としたアメリカ合衆国軍隊の駐留は同条に違反しないとしている。
解説
本肢は誤り。駐留米軍の合憲性が争われた砂川事件判決(最大判昭和34年12月16日)は、憲法9条について「同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と述べ、固有の自衛権が否定されていないことを明らかにした。この点に関する本肢前段の記述は判旨に沿う。
しかし、同判決は、9条2項が自衛のための戦力の保持まで禁じているか否かについては、意識的に判断を留保している。すなわち、2項が戦力の不保持を定めた趣旨は、わが国が戦力を保持し「自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使する」ことにより1項が永久に放棄した侵略戦争を惹起することのないようにする点にあると解したうえで、「同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として」と明示的に留保し、2項が保持を禁ずる「戦力」とはわが国が主体となって指揮権・管理権を行使しうる戦力、すなわちわが国自体の戦力を指すのであって、外国の軍隊は、たとえわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力に該当しないと解すべきである、という論理によって駐留米軍の合憲性を導いたのである。
つまり、判例が駐留米軍を9条2項の「戦力」に当たらないとした理由は、あくまで当該軍隊がわが国の指揮権・管理権に服さない外国の軍隊であるという点にあり、自衛のための戦力の保持が許されるという前提に立ったものではない。本肢は、判例が「9条2項は自衛のための戦力の保持まで禁じたものではない」と判断し、そこから駐留の合憲性を導いたとする点で、判例が明言を避けた事柄を判示内容として摘示するものであり、誤っている。
a.憲法第9条第1項は,侵略戦争を放棄しているが,自衛戦争は放棄しておらず,同条第2項にいう「前項の目的」とは,第1項の「国際紛争を解決する手段として」の戦争の放棄のみを指すから,自衛のための戦力の保持は禁じられていない。
b.自衛のための戦力と侵略のための戦力とを区別することは困難であり,戦力の保持を禁じた第2項の規定が無意味なものとなる。
解説
本肢は正しい(bはaの批判となっており,解答は1である)。aは,憲法9条1項が放棄するのは「国際紛争を解決する手段として」の戦争,すなわち侵略戦争に限られるとの限定放棄説に立った上で,同条2項冒頭の「前項の目的を達するため」を,1項が掲げた侵略戦争放棄という目的に限定して読む見解である。その帰結として,侵略目的でない戦力,すなわち自衛のための戦力の保持は2項によって禁じられないことになる。これに対しbは,自衛のための戦力と侵略のための戦力とを実際上区別することは困難であると指摘する。兵器も部隊も編制も,用いられ方によって侵略にも自衛にもなり得るのであって,客観的な線引きは容易でない。そうすると,a説の下では,保持する実力を自衛目的のものと説明しさえすれば2項の適用を免れることとなり,「陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない」との9条2項前段の規定は規範としての意味を失う。bは,a説がこのように2項を空洞化させるという論理的帰結の不当性を突くものであり,a説に対する批判として成り立っている。よって本肢は正しい。
a.憲法第9条第1項は,侵略戦争を放棄しているが,自衛戦争は放棄しておらず,同条第2項にいう「前項の目的」とは,第1項の「国際紛争を解決する手段として」の戦争の放棄のみを指すから,自衛のための戦力の保持は禁じられていない。
b.自衛のための戦力と侵略のための戦力とを区別することは困難であり,戦力の保持を禁じた第2項の規定が無意味なものとなる。
解説
本肢は正しい(bはaの批判となっており,解答は1である)。aは,憲法9条1項が放棄するのは「国際紛争を解決する手段として」の戦争,すなわち侵略戦争に限られるとの限定放棄説に立った上で,同条2項冒頭の「前項の目的を達するため」を,1項が掲げた侵略戦争放棄という目的に限定して読む見解である。その帰結として,侵略目的でない戦力,すなわち自衛のための戦力の保持は2項によって禁じられないことになる。これに対しbは,自衛のための戦力と侵略のための戦力とを実際上区別することは困難であると指摘する。兵器も部隊も編制も,用いられ方によって侵略にも自衛にもなり得るのであって,客観的な線引きは容易でない。そうすると,a説の下では,保持する実力を自衛目的のものと説明しさえすれば2項の適用を免れることとなり,「陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない」との9条2項前段の規定は規範としての意味を失う。bは,a説がこのように2項を空洞化させるという論理的帰結の不当性を突くものであり,a説に対する批判として成り立っている。よって本肢は正しい。
a.憲法第9条第1項は,侵略戦争を放棄しているが,自衛戦争は放棄しておらず,同条第2項にいう「前項の目的」とは,第1項全体の精神,すなわち「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」を指し,第2項によって警察力を上回る実力の保持が禁じられている。
b.日本国憲法には,第66条第2項の文民条項を除き,戦争開始の決定手続や軍隊の編制に関する規定が存在しない。
解説
本肢は誤り(bはaの批判となっておらず,解答は2である)。aは,憲法9条1項については限定放棄説に立ちつつ,2項の「前項の目的を達するため」を1項全体の精神,すなわち「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」との部分を指すものと解し,その結果,2項により警察力を上回る実力の保持が目的のいかんを問わず全面的に禁じられるとする見解である(通説的理解)。この立場では,1項の解釈としては自衛戦争が放棄されていないことになるものの,2項がおよそ戦力の保持を許さない以上,自衛戦争を現実に遂行する手段が残らず,結局は一切の戦争ができないという帰結に至る。これに対しbは,日本国憲法には66条2項の文民条項を除き,宣戦布告等の戦争開始の決定手続や軍隊の編制・統帥に関する規定が存在しないことを指摘する。憲法が軍隊の保持を予定しているのであれば,その組織・統制や実力行使の発動手続について統治機構上の規定を置くのが当然であるところ,日本国憲法はこれを欠く。したがってbの指摘は,憲法が軍隊の存在を前提としていないこと,ひいては9条2項が全面的な戦力不保持を定め,およそ戦争を想定していないことを裏づける論拠であり,a説の結論を支えるものである。むしろ自衛戦力の保持を認める見解に対する批判として機能する。よって本肢は誤りである。
a.憲法第9条は,我が国が主権国として有する固有の自衛権まで否定するものではなく,自衛のために必要な最小限度の実力,すなわち自衛力の保持を禁じていない。
b.個人の正当防衛の権利とは異なり,国家が固有の権利として自衛権を有するということはできない。
解説
本肢は正しい(bはaの批判となっており,解答は1である)。aは,憲法9条は我が国が主権国として有する固有の自衛権までも否定するものではないことを前提とし,自衛権を実効的に行使するために必要な最小限度の実力,すなわち自衛力は同条2項にいう「戦力」に当たらないとして,その保持は禁じられていないとする見解である。最大判昭和34年12月16日も,9条は主権国としての固有の自衛権を否定するものではない旨を判示しており,aはこの理解に沿うものである。この見解の論理は,国家に固有の権利としての自衛権が存在するという出発点から,その裏づけとなる実力の保持を9条2項の枠外に置く点にある。bは,個人の正当防衛の権利とは異なり,国家が固有の権利として自衛権を有するということはできないとして,まさにaの論理の前提そのものを否定する。前提たる固有の自衛権が認められないのであれば,そこから自衛力保持の許容を導くaの論証は成り立たない。したがってbはaに対する有効な批判である。よって本肢は正しい。
a.戦争の放棄について規定した憲法第9条第1項は,自衛のためであると侵略のためであるとを問わず,全ての戦争を放棄することとしたものである。
b.「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」という文言は,戦争抛棄ニ関スル条約(いわゆる不戦条約)に見られるような,通常の国際法上の用例に従って解釈されるべきである。
解説
本肢は誤り。aは、憲法9条1項が自衛のためであると侵略のためであるとを問わず一切の戦争を放棄したとする見解(いわゆる全面放棄説)である。これに対しbは、同項の「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」という文言を、戦争抛棄ニ関スル条約(不戦条約)に見られるような通常の国際法上の用例に従って解釈すべきであるとする。同条約は締約国が国際紛争解決のために戦争に訴えることを非とする旨を定めるものであり、国際法上、「国際紛争を解決する手段としての戦争」とは、国家が自国の主張を実力によって相手国に押し付けるために行う戦争、すなわち侵略戦争を意味するものとして理解されてきた。したがってbの解釈を前提とすると、憲法9条1項が「国際紛争を解決する手段としては」との限定を付して放棄したのは侵略戦争にとどまり、自衛のための戦争および制裁戦争は同項によっては放棄されていないという帰結が導かれる。これは、全ての戦争が放棄されたとするaの結論と正面から矛盾するものであり、bはむしろ、同項の放棄する戦争は侵略戦争に限られるとする限定放棄説を基礎づける論拠である。よって、bの見解はaの見解の根拠となっておらず、本肢は誤りである。
a.戦争の放棄について規定した憲法第9条第1項は,自衛のためであると侵略のためであるとを問わず,全ての戦争を放棄することとしたものである。
b.「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」という文言は,戦争抛棄ニ関スル条約(いわゆる不戦条約)に見られるような,通常の国際法上の用例に従って解釈されるべきである。
解説
本肢は誤り。aは、憲法9条1項が自衛のためであると侵略のためであるとを問わず一切の戦争を放棄したとする見解(いわゆる全面放棄説)である。これに対しbは、同項の「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」という文言を、戦争抛棄ニ関スル条約(不戦条約)に見られるような通常の国際法上の用例に従って解釈すべきであるとする。同条約は締約国が国際紛争解決のために戦争に訴えることを非とする旨を定めるものであり、国際法上、「国際紛争を解決する手段としての戦争」とは、国家が自国の主張を実力によって相手国に押し付けるために行う戦争、すなわち侵略戦争を意味するものとして理解されてきた。したがってbの解釈を前提とすると、憲法9条1項が「国際紛争を解決する手段としては」との限定を付して放棄したのは侵略戦争にとどまり、自衛のための戦争および制裁戦争は同項によっては放棄されていないという帰結が導かれる。これは、全ての戦争が放棄されたとするaの結論と正面から矛盾するものであり、bはむしろ、同項の放棄する戦争は侵略戦争に限られるとする限定放棄説を基礎づける論拠である。よって、bの見解はaの見解の根拠となっておらず、本肢は誤りである。
a.憲法第9条に違反する具体的な立法又は行政処分により,個人に何らかの不利益が生じたとしても,同条で保障された個人の権利が侵害されたものということはできない。
b.憲法第9条は,前文における平和主義の原則を受けて規定されたものであり,平和達成のための禁止事項を前文よりも具体的に列挙しているが,これは国家機関に対して一定の行為を禁止するものであって,その保護法益は国民一般の公益である。
解説
本肢は正しい。aは、憲法9条に違反する具体的な立法又は行政処分により個人に何らかの不利益が生じたとしても、同条によって保障された個人の権利が侵害されたとはいえないとする見解であり、9条から裁判上主張し得る個人の主観的権利(いわゆる平和的生存権の具体的権利性)を導くことを否定する立場である。これに対しbは、9条が憲法前文の平和主義の原則を受けて、平和達成のための禁止事項を前文よりも具体的に列挙した規定であるとしつつ、それは国家機関に対して一定の行為を禁止するものであり、その保護法益は国民一般の公益であるとする。ある憲法規範が専ら国家機関に対する行為規範として定められ、その保護する利益が国民一般の公益にとどまるのであれば、当該規範から特定の個人に帰属する個別的・具体的な権利が生ずるとはいえず、当該規範に違反する立法や行政処分によって事実上不利益を被る者があったとしても、それは公益が保護されることによる反射的利益が失われたにすぎないことになる。bはまさにこの論理により、9条違反があっても同条によって保障された個人の権利の侵害を観念することはできないとするaの結論を基礎づけている。なお、a・bは、いずれも長沼ナイキ基地訴訟の控訴審判決(札幌高判昭和51年8月5日)の説示に対応するものである。同判決は、憲法9条につき「国家機関に対する行為の一般禁止命令であり、その保護法益は一般国民に対する公益というほかなく、同条規により特定の国民の特定利益保護が具体的に配慮されているものとは解し難い」とした上で、「具体的な立法又は行政処分による事実上の影響として、個人に対し、何らかの不利益が生じたとしても、それは、右条規により個々人に与えられた利益の喪失とはいい得ない」と判示しており、bからaが導かれる関係が判決自体において示されている。よってbの見解はaの見解の根拠となっており、本肢は正しい。
憲法第9条第2項が保持を禁止した戦力とは,我が国がその主体となってこれに指揮権,管理権を行使し得る戦力に限られず,我が国との安全保障条約に基づき我が国に駐留する外国の軍隊も,我が国の要請に応じて武力を行使する可能性があるので,同項の戦力に該当し得る。
解説
本肢は誤り。旧日米安全保障条約に基づく合衆国軍隊の駐留が憲法9条2項に違反しないかが争われた砂川事件判決(最大判昭和34年12月16日)は、同項が保持を禁じた「戦力」の意義について、「同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」と判示した。すなわち、同判決が採用した基準は、当該実力組織に対して我が国が指揮権・管理権を行使し得るか否かという帰属主体に着目した基準であり、9条2項の名宛人はあくまで我が国自身であって、他国の指揮命令系統の下にある軍隊はその規律対象外だという理解に立つものである。したがって、9条2項の「戦力」が我が国を主体とするものに「限られず」、駐留外国軍隊も該当し得るとする本肢は、この判示と正面から食い違う。
また本肢は、該当性の理由として「我が国の要請に応じて武力を行使する可能性がある」ことを挙げるが、同判決は駐留軍がいかなる場面で出動し得るかという実質的・機能的な観点から「戦力」該当性を判定したわけではない。同判決はむしろ、9条は主権国としての我が国が有する固有の自衛権を否定するものではなく、自国の平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることも何ら禁ずるところではないとした上で、駐留軍が我が国の「戦力」に当たらない以上、その駐留は9条2項に違反しないとの結論を導いている。なお、安全保障条約のように高度の政治性を有する条約については、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは」司法審査の範囲外にあるとして、内閣・国会の判断ひいては主権者たる国民の政治的批判に委ねられるべきものともしており、この点でも本肢のように駐留軍を9条2項の枠内に取り込む理解は判例の趣旨に沿わない。
国が自衛隊の用地を取得するために私人と締結した土地売買契約は,当該契約が実質的にみて公権力の発動たる行為と何ら変わりがないといえるような特段の事情のない限り,憲法第9条の直接適用を受けず,私人間の利害関係の公平な調整を目的とする私法の適用を受けるに過ぎない。
解説
本肢は正しい。国が自衛隊の基地用地を取得するために私人と締結した土地売買契約の効力が争われた百里基地訴訟判決(最判平成元年6月20日)は、「憲法九条は、その憲法規範として有する性格上、私法上の行為の効力を直接規律することを目的とした規定ではなく、人権規定と同様、私法上の行為に対しては直接適用されるものではない」とした上で、「国が一方当事者として関与した行為であつても、たとえば、行政活動上必要となる物品を調達する契約、公共施設に必要な土地の取得又は国有財産の売払いのためにする契約などのように、国が行政の主体としてでなく私人と対等の立場に立つて、私人との間で個々的に締結する私法上の契約は、当該契約がその成立の経緯及び内容において実質的にみて公権力の発動たる行為となんら変わりがないといえるような特段の事情のない限り、憲法九条の直接適用を受けず、私人間の利害関係の公平な調整を目的とする私法の適用を受けるにすぎない」と判示した。本肢はこの判示をほぼそのまま述べたものであり、正しい。
この判断の根底には、9条が国家の統治行動を規律する規範であって、国が私人と対等の当事者として財産取引を行う場面までを直接名宛人とするものではない、という規範の性格論がある。したがって、国が売買契約の一方当事者であるという形式のみから9条が働くわけではなく、契約の成立の経緯・内容に照らして実質的に公権力の発動と異ならないといえる特段の事情がある例外的場合に限って別異に解する余地が残される、という構造になっている。
もっとも、9条が私法上の契約に一切影響しないというわけではない。同判決は、9条の理念や目的が民法90条の公序良俗の内容を形成する一要素として私法の解釈適用を通じて間接的に及び得ることを認めつつ、当該売買契約の当時、自衛隊の存在等が国民一般の間で確定的に反社会的とみられていたとはいえないとして、公序良俗違反による無効を否定した。人権規定について採られる間接適用説と同じ発想を9条にも及ぼしたものと理解されている。
憲法第9条第1項について,侵略戦争を放棄したものであり,自衛戦争を放棄したものではないという考え方に立ったとしても,同条第2項前段によって第1項の目的を達成するために一切の戦力の保持が禁止されており,同条第2項後段によって交戦権も否認されているとの考え方に立てば,結果として自衛のための戦争も放棄されていることになる。
解説
本肢は正しい。憲法9条1項は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定める。この「国際紛争を解決する手段としては」との文言については、不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)1条が「国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争」を放棄すると規定していたことに代表される従来の国際法上の用語例を手がかりに、ここで放棄されたのは侵略戦争にとどまり、自衛戦争までは放棄されていないと解する見解(限定放棄説)がある。もっとも、この見解に対しては、武力の行使を一般的に違法とする国際連合憲章下の理解と食い違うのではないか、また戦力の不保持と交戦権の否認を掲げる2項の文言と整合しないのではないか、との批判が向けられている。そして、限定放棄説に立ったとしても、9条2項前段の「前項の目的を達するため」を、2項が禁ずる戦力の範囲を画する法的な限定ではなく、1項が掲げる国際平和の希求という目的一般ないし立法者が戦力不保持を定めるに至った動機を述べたにすぎないと解すれば、自衛のためのものを含めおよそ一切の「戦力」の保持が禁止されることになる。加えて、同項後段は「国の交戦権は、これを認めない」と定め、国の交戦権を全面的に否認している。そうすると、戦争を遂行するための実力組織を一切保持し得ず、交戦権も行使し得ない以上、1項の段階では放棄されていないはずの自衛戦争も現実にこれを遂行する法的手段を欠くこととなり、結果として放棄されたのと同じ帰結に至る(いわゆる遂行不能説)。本肢はこの論理過程を正確に述べるものである。よって本肢は正しい。
戦争はおよそ国際紛争解決の手段として行われるものであり,その目的のいかんを問わず憲法第9条第1項により放棄されているという考え方に立ったとしても,同条第2項の「前項の目的を達するため」につき,戦力不保持を定めるに至った動機を示すものとの考え方に立てば,結果として自衛のための戦争は認められていることになる。
解説
本肢は誤り。憲法9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」との文言につき、現実の戦争で国家間の紛争解決という性格を欠くものはおよそ考え難く、侵略のための戦争と自衛のための戦争とをあらかじめ峻別することも困難であることを理由に、目的のいかんを問わず一切の戦争が1項によって放棄されていると解する見解(全面放棄説)がある。この見解を前提とすれば、2項の規定を持ち出すまでもなく、自衛のための戦争は既に1項の段階で放棄されていることになる。他方、9条2項の「前項の目的を達するため」の意義については、これを2項が禁ずる戦力の範囲を画する法的限定とはみず、単に立法者が戦力不保持を定めるに至った動機ないし理由を示したにすぎないと解する見解がある。しかし、この動機説は、保持を禁じられる戦力に目的による限定を加えない方向、すなわち禁止の範囲をむしろ広げる方向に働く解釈であって、1項によっていったん放棄された戦争を復活させる機能を有するものではない。1項が自衛戦争を含む一切の戦争を放棄していると解する以上、2項の文言をいかに読もうとも、既に放棄された自衛戦争が改めて許容される余地はない。したがって、本肢のように全面放棄説と動機説とを組み合わせても、結果として自衛のための戦争が認められることにはならない。よって本肢は誤りである。
憲法第9条第1項について,侵略戦争を放棄したものであり,自衛戦争を放棄したものではないという考え方に立った場合,第9条第2項の「交戦権」につき,交戦国に国際法上認められる権利と考えるか,国として戦いを交える権利と考えるかに関わらず,自衛のための戦争は認められていることになる。
解説
本肢は誤り。憲法9条1項につき限定放棄説に立てば、自衛のための戦争は1項では放棄されていないことになる。そこで、最終的に自衛戦争が認められるか否かは、2項後段の「国の交戦権は、これを認めない」との規定をどう理解するかにかかることになる。「交戦権」の意義については、①交戦国が国際法上有する権能の総体(相手国兵力の殺傷・破壊、船舶の臨検・拿捕、占領地行政等)を意味すると解する見解と、②国家が戦いを交えること自体の権利を意味すると解する見解とが対立している。①によれば、否認されるのは戦時における個々の権能にとどまるから、自衛のための戦争を行うこと自体は認められる余地があり(もっとも、敵兵力の殺傷や敵領域への攻撃といった行為までは行い得ないことになる)、限定放棄説と結び付けば自衛戦争は認められるとの帰結を導き得る。これに対し②によれば、戦いを交える権利そのものが否認される以上、侵略戦争はもとより自衛のための戦争も行うことは認められない(なお、この立場は、1項では自衛戦争を認めながら2項後段でこれを否定する結果となり、条文相互の整合性が問われる点に注意を要する)。このように、いずれの見解を採るかによって結論は分かれるのであって、「交戦権」の意義をいかに解するかに関わらず自衛のための戦争が認められる、とはいえない。よって本肢は誤りである。
第1項で,侵略戦争は放棄されているが,自衛戦争は放棄されていないとし,第2項の「前項の目的を達するため」を,侵略戦争放棄の目的を達するためとする見解に対しては,日本国憲法には,第66条第2項の文民条項以外に戦争や軍隊を予定する規定が存在しないとの批判が当てはまる。
解説
本肢は正しい。本肢の見解は、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」という限定を国際法上の用語例に従って侵略戦争を指すものと読み、1項が放棄したのは侵略戦争のみであるとした上で、2項冒頭の「前項の目的を達するため」を、1項が侵略戦争を放棄した目的を達するためという条件を示す文言と解するものである(限定放棄説+条件説)。この読み方によれば、2項が保持を禁ずる「陸海空軍その他の戦力」は侵略目的の戦力に限られ、自衛のための戦力を保持し自衛戦争を遂行することが憲法上許容されるという帰結になる。
しかし、憲法が自衛戦争とそのための軍隊を予定しているのであれば、軍の編制、統帥権の所在、宣戦布告や講和の手続、軍事費の議決、軍人の身分や軍事裁判に関する規定など、軍隊の存在を前提とする条項が当然に置かれていなければならない。ところが日本国憲法には、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないとする66条2項を除き、戦争や軍隊の存在を前提とする規定は一つも存在しない。それどころか76条2項は特別裁判所の設置を禁じており、軍法会議を置くこともできない。しかも66条2項は、9条2項の戦力不保持を前提としつつ極東委員会の要求を受けて挿入された経緯を持つ規定であって、これをもって憲法が軍隊を予定していた証左とみることはできない。
したがって、憲法典の体系上、自衛戦争や自衛のための戦力を許容する解釈は成り立ちがたいという指摘は、本肢の見解に対する批判として的確に当てはまる。よって本肢は正しい。
第1項で,侵略戦争は放棄されているが,自衛戦争は放棄されていないとし,第2項の「前項の目的を達するため」を,戦争を放棄するに至った動機を一般的に指すとする見解に対しては,国際法上の用例によると,「国際紛争を解決する手段としての戦争」は「国家の政策の手段としての戦争」と同義であり,こうした用例を尊重すべきであるとの批判が当てはまる。
解説
本肢は誤り。本肢の見解は、1項が放棄したのは侵略戦争のみであるとしつつ、2項の「前項の目的を達するため」を戦力不保持の条件ではなく、戦争放棄に至った動機を一般的に示す文言と読むもの(限定放棄説+動機説)であり、通説とされる立場である。
この見解が1項の放棄対象を侵略戦争に限る根拠としているのが、まさに本肢が挙げる国際法上の用語例である。すなわち、不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約、1928年署名・1929年日本批准)1条が「国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スル」と定めたように、「国際紛争を解決する手段としての戦争」は「国家の政策の手段としての戦争」と同義であり、自衛戦争を含まない侵略戦争を意味するというのが従来の国際法上の通常の用例である。9条1項が不戦条約の文言をほぼ踏襲していることからも、この用例を尊重すべきだという指摘は、1項が自衛戦争までは放棄していないという本見解の論拠そのものを補強する主張にほかならない。
したがって、この指摘は本肢の見解に対する批判にはならない。むしろ、1項の「国際紛争を解決する手段としては」を戦争一般にかかる修飾とみるなどして、1項で自衛戦争を含む一切の戦争が放棄されていると解する見解(1項全面放棄説)に対してこそ、この用例論は批判として機能する。批判として当てはまるとする点で、本肢は誤りである。
第1項で,侵略戦争は放棄されているが,自衛戦争は放棄されていないとし,第2項の「前項の目的を達するため」を,戦争を放棄するに至った動機を一般的に指すとする見解と,第1項で,自衛戦争を含む全ての戦争が放棄されているとする見解のいずれの見解を採っても,憲法第9条により,全ての戦争が放棄されているとの結論が導かれる。
解説
本肢は正しい。まず前段の見解(1項限定放棄説+2項動機説)は、1項では侵略戦争のみが放棄され自衛戦争は放棄されていないとしつつ、2項の「前項の目的を達するため」を戦力不保持を定めるに至った動機を一般的に示す文言と解する。この立場によれば、2項は目的のいかんを問わず無条件に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定め、さらに「国の交戦権は、これを認めない」としているのであるから、1項でいったん留保されたはずの自衛戦争も、これを遂行する実力組織を持ちえず、交戦権も否認される以上、結局は行いえない。すなわち9条全体としては全ての戦争が放棄されているという結論(結論的全面放棄説)に至る。
他方、後段の見解(1項全面放棄説)は、1項の文言は戦争一般を放棄したものと読むべきであり、あるいはおよそ戦争は自衛の名の下に遂行されるため侵略戦争と自衛戦争の峻別が不可能であることを理由に、1項の段階で自衛戦争を含む一切の戦争が放棄されていると解する。この立場では、2項の解釈を待つまでもなく全ての戦争が放棄される。
このように、両説は1項の解釈および全面放棄という結論に至る筋道を異にするものの、9条によって全ての戦争が放棄されるという帰結は共通する。両説の差異は、9条の一部のみを改正した場合の帰結や自衛のための実力組織の位置づけといった場面で意味を持つにとどまる。なお、最大判昭和34年12月16日(砂川事件)は、9条は主権国として当然に有する固有の自衛権を否定するものではないとし、2項が禁ずる「戦力」とはわが国が主体となって指揮権・管理権を行使しうるものをいうとして在日米軍はこれに当たらないとしたが、これは上記の学説上の対立とは位相を異にする判断である。よって本肢は正しい。
およそ国際紛争解決の手段でない戦争というものは現実にはあり得ず,侵略戦争と自衛戦争等を峻別することは困難である。
解説
本肢は誤り。本肢は、およそ現実の戦争において「国際紛争を解決する手段」としての戦争とそれ以外の戦争とを区別することは不可能であり、したがって侵略戦争と自衛戦争等とを峻別することは困難であると主張するものである。これは、憲法9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」という文言に放棄される戦争を限定する意味を認めず、同項によって自衛戦争を含む一切の戦争・武力行使が放棄されたと解する立場(1項全面放棄説)の主要な論拠として説かれてきたものである。これに対し、設問の見解は、9条1項は侵略戦争を放棄したものであって自衛戦争は同項では放棄されていないとする前提に立ち、その上で同条2項が一切の戦力の不保持と交戦権の否認を定めることにより、結果として自衛戦争をも遂行し得ないものとしたと解する(いわゆる遂行不能説)。すなわち設問の見解は、1項の解釈において侵略戦争と自衛戦争とを区別することが可能であることを論理の出発点としているのであって、両者の峻別が困難であるとする本肢の理解は、この出発点そのものを否定するものである。したがって本肢は設問の見解と整合せず、×が付される。よって本肢は誤りである。
非武装平和主義を掲げた憲法の特徴は第9条第2項にあり,同項は,単なる確認的規定ではなく,実質的な意義を有する規定と解するべきである。
解説
本肢は正しい。設問の見解は、憲法9条1項は侵略戦争のみを放棄したものであり自衛戦争は放棄されていないとした上で、同条2項冒頭の「前項の目的を達するため」を、1項全体の企図する目的、すなわち日本国民が正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求して戦争等を放棄するという動機を指すものと解する。この理解によれば、2項の戦力不保持および交戦権否認は、放棄される戦争の種類を問うことなく全面的に及ぶことになり、その結果、1項の段階では放棄されていなかった自衛戦争についても、これを遂行するための戦力と交戦権を欠く以上、現実に行うことは不可能となる。つまりこの見解においては、日本国憲法の非武装平和主義を基礎づける決定的な規定は9条2項であり、2項は1項の内容を念のため確認したにすぎない規定ではなく、1項の帰結を超えて独自の法的効果を生じさせる実質的意義を有する規定ということになる。これに対し、1項で自衛戦争を含む一切の戦争が放棄されていると解する立場からは、2項は1項の当然の帰結を確認した規定と位置づけられやすい。以上より、非武装平和主義の特徴を2項に見出し、同項を確認的規定にとどまらない実質的規定と解する本肢は、設問の見解と整合し、○が付される。よって本肢は正しい。
国際法上,交戦権とは,敵国領土の占領,船舶の臨検・拿捕,あるいは敵国兵力の破壊を行う権利など,交戦国に認められている諸権利のことをいう。
解説
本肢は誤り。本肢は、交戦権とは、敵国領土の占領、船舶の臨検・拿捕、敵国兵力の破壊を行う権利など、国際法上交戦国に認められている諸権利の総体をいうと解するものである。これは憲法9条2項後段にいう「国の交戦権」の意義をめぐる学説のうち、交戦国が国際法上有する権利の束と捉える見解であり、それ自体は有力に主張されているものである。しかし、設問の見解は、9条2項につき、一切の戦力の不保持を定めるとともに「国家として戦争を行う権利である交戦権」を否認する規定であると明示しており、交戦権を、個々の権利の総体ではなく戦争そのものを行う権利と理解している。この理解は、2項によって自衛戦争を含む戦争遂行が不可能となるという設問の見解の論理構成と結びついたものであり、交戦権を交戦国の諸権利と解する本肢の理解とは前提を異にする。むしろ本肢が述べるのは国際法における一般的な用語法であって、設問の見解の交戦権概念がその用例から外れているという批判を含意するものと位置づけられる。受験上は、交戦権の理解に二通りの立場があり、いずれを採るかによって9条2項の意味内容と帰結が変わってくること、および設問文が交戦権をどう定義しているかを読み落とさないことが急所となる。したがって本肢は設問の見解と整合せず、×が付される。よって本肢は誤りである。
①及び③の見解を前提とすると,自衛のための戦争は認められるので,そのための戦力保持は許されることになる。
解説
本肢は正しい。憲法9条1項は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めるところ、見解①は、この「国際紛争を解決する手段としては」との留保に着目し、不戦条約以来の用語法上、これは他国に対する侵略目的の戦争を指すと解する立場である。したがって①によれば、1項が放棄したのは侵略戦争にとどまり、自衛のための戦争は放棄されていないことになる。
次に9条2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めるが、見解③は、この「前項の目的を達するため」との文言を、不保持とされる戦力の範囲を画する限定句として読む立場である(いわゆる芦田修正を根拠とする理解)。すなわち、2項が保持を禁ずる戦力とは、1項が放棄した戦争を遂行するための戦力に限られる、というのである。
そうすると、①と③を組み合わせた場合、1項が放棄したのは侵略戦争のみであるから、2項によって保持を禁じられる戦力も侵略戦争遂行のための戦力に限定される。その結果、自衛のための戦争は放棄されておらず、かつ自衛のための戦力を保持することも9条によって禁止されていないという帰結が導かれる。これが、9条の下でも自衛戦争および自衛戦力が許容されるとする限定放棄説の典型的な論理構成である。本肢はこの帰結を正確に述べており、正しい。
①及び④の見解を前提とすると,一切の戦力の保持が禁止される結果として,自衛のための戦争も放棄されることになる。
解説
本肢は正しい。見解①は、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」という留保を侵略戦争を意味するものと解し、自衛のための戦争は1項では放棄されていないとする立場である。もっとも、1項の段階で自衛戦争が留保されていても、それを現実に遂行しうるかどうかは2項の解釈にかかっている。
見解④は、9条2項の「前項の目的を達するため」との文言について、これは日本国民が戦争を放棄するに至った動機ないし理由を一般的に示したものにすぎず、不保持とされる戦力の範囲を限定する趣旨を含まないと解する。したがって④によれば、2項は目的のいかんを問わず「陸海空軍その他の戦力」の保持を一切禁止し、あわせて「国の交戦権は、これを認めない」として交戦権も全面的に否認することになる。
そうすると、①と④を組み合わせた場合、1項では自衛戦争が放棄されていないとしても、2項によって自衛のための戦力を含む一切の戦力の保持が禁じられ、交戦権も否認される以上、自衛戦争を遂行する法的手段が残されないこととなる。結局、9条全体としてみれば自衛戦争も放棄されたのと同じ結果になる。これがいわゆる遂行不能説(結果的全面放棄説)であり、学説上有力に主張されてきた理解である。本肢はこの帰結を述べるものであり、正しい。
②及び④の見解を前提とすると,侵略戦争はもとより,自衛のための戦争も認められず,そのための戦力の保持も一切許されないことになる。
解説
本肢は正しい。見解②は、戦争は本来いずれも国家間の紛争を武力で解決しようとするものであって、自衛の名の下に行われる戦争もその実質は国際紛争解決の手段にほかならないとみる立場であり、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」との留保に限定的意味を認めない。したがって②によれば、目的のいかんを問わず、戦争および武力による威嚇・武力の行使は1項の段階ですべて放棄されていることになる(全面放棄説)。
他方、見解④は、9条2項冒頭の「前項の目的を達するため」を戦争放棄に至った動機を一般的に示す文言と解し、戦力不保持の範囲を限定する趣旨を認めない立場である。よって2項は、目的を問わず「陸海空軍その他の戦力」の保持を全面的に禁止し、さらに交戦権も否認する。
両見解を組み合わせれば、1項によって侵略戦争のみならず自衛のための戦争も含む一切の戦争が放棄され、2項によって一切の戦力の保持も許されないという、最も徹底した非武装平和主義の帰結が導かれる。本肢はこの帰結をそのまま述べたものであり、正しい。
なお、判例(砂川事件・最大判昭和34年12月16日)は、9条が主権国家としてのわが国固有の自衛権まで否定するものではないとしたうえ、2項が保持を禁ずる戦力とはわが国が指揮権・管理権を行使しうる戦力をいうとして在日米軍はこれに当たらないと判示しており、②④の組合せとは異なる立場に立つ。
憲法第9条は,我が国が主権国として持つ固有の自衛権を否定するものではない。憲法前文の趣旨からして,憲法第9条は,国際連合のような国際機関にばかりでなく,他国に安全保障を求めることを禁じるものではない。
解説
本肢は正しい。最大判昭和34年12月16日(砂川事件)は、米軍が使用する立川飛行場の拡張に反対する集団の一部が基地の境界内に立ち入り、旧日米安全保障条約3条に基づく刑事特別法違反として起訴された事案に関するものである。同判決は、憲法9条について、同条は戦争を放棄し戦力の保持を禁止しているが、「これによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と判示した。その理由として同判決は、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」と述べている。したがって、憲法9条が固有の自衛権を否定するものではないとする本肢前段は、判例の趣旨に合致する。次に同判決は、憲法前文が、日本国民は「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼する」ことによってわれらの安全と生存を保持しようと決意した旨を述べていることを援用し、9条2項により戦力を保持しないことから生ずる我が国の防衛力の不足はこれによって補うのだとした上で、その安全保障の方式・手段は、原判決がいうように国際連合の機関である安全保障理事会等が執る軍事的安全措置に限定されるものではなく、目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選びうるとして、「憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない」とした。すなわち、安全保障を求める相手方は国際連合その他の国際機関に限られず、特定の他国に対して安全保障を求めること(現に日米安全保障条約に基づき米軍の駐留を認めること)も憲法上禁止されていないことになる。本肢は、固有の自衛権の不否定と、国際機関に限らず他国にも安全保障を求めうるという二点において、右判例の趣旨に合致する。よって本肢は正しい。
憲法第9条第2項にいう「戦力」とは,我が国がその主体となって指揮権,管理権を行使し得る戦力をいう。我が国に駐留する外国の軍隊がここにいう戦力に該当するか否かの判断は,裁判所の司法審査権の範囲外である。
解説
本肢は誤り。前段は正当である。最大判昭和34年12月16日(砂川事件)は、憲法9条2項がその保持を禁止する「戦力」とは、「わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指」すと解した。その理由として同判決が挙げるのは、同項が戦力の不保持を規定したのは、我が国が戦力を保持し自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項が永久に放棄することを定めた侵略戦争を引き起こすようなことのないようにするためだ、という点である。しかし後段が判例の趣旨に反する。同判決は、我が国に駐留する外国の軍隊について、「外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しない」と明示的に実体判断を示したのであって、この点を司法審査の範囲外としたわけではない。むしろ、駐留外国軍隊が「戦力」に当たるか否かを最高裁自身が判断している以上、この論点に裁判所の司法審査権が及ぶことが前提とされているというべきである。同判決が司法審査に原則としてなじまないとしたのは、駐留の根拠である日米安全保障条約それ自体の合憲性についてであり、同条約は主権国としての我が国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものであるから、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り、裁判所の司法審査権の範囲外にあるとした(いわゆる統治行為論)。本肢は、条約の合憲性審査に関する判示と、駐留外国軍隊が「戦力」に当たるか否かに関する判示とを混同するものである。よって本肢は誤りである。
憲法第9条は国の基本的な法秩序を示した規定であるから,憲法より下位の法形式による全ての法規の解釈適用に当たって,その指導原理となり得るものであることはいうまでもないが,私法上の行為の効力を直接規律するものではない。
解説
本肢は正しい。最判平成元年6月20日(百里基地訴訟)は、自衛隊基地の用地をめぐる国と私人との土地売買契約の効力が争われた事案において、憲法9条は、人権規定と同様、国の基本的な法秩序を示した規定であるから、憲法より下位の法形式によるすべての法規の解釈適用に当たってその指導原理となりうるものであることはいうまでもないが、その憲法規範として有する性格上、私法上の行為の効力を直接規律することを目的とした規定ではなく、私法上の行為に対して直接適用されるものではないと判示した。したがって、国が一方当事者として関与した行為であっても、行政活動に必要な物品を調達する契約、公共施設に必要な土地の取得、国有財産の払下げのための契約などのように、国が行政の主体としてではなく私人と対等の立場に立って私人との間で個別的に締結する私法上の契約は、その成立の経緯及び内容において実質的にみて公権力の発動たる行為と何ら変わりがないといえるような特段の事情がない限り、憲法9条の直接適用を受けず、私人間の利害関係の公平な調整を目的とする私法の適用を受けるにすぎない。もっとも、同判決は、憲法9条の趣旨が私法関係に全く及ばないとしたわけではなく、その趣旨は民法90条の公序良俗の内容を形成する一要素となる限度で間接的に及びうることを認めた上で、本件売買契約が社会的に許容されない反社会的な行為であるとはいえないとして、その効力を否定しなかった(いわゆる間接適用説的な処理)。したがって、憲法9条が下位法規の解釈適用の指導原理となることを認めつつ、私法上の行為の効力を直接規律するものではないとする本肢の記述は、右判例の趣旨に合致する。よって本肢は正しい。
主権という言葉は多義的であり,国民主権,国家主権のほかに,国家権力(統治権)そのものを意味する場合もあって,憲法第9条第1項及び第41条で使われている「国権」とは,この国家権力そのものを表すものとして使われている。
解説
本肢は正しい。主権という語は多義的であり、一般に、①国家権力そのもの(立法・行政・司法を包括する統治権)、②国家権力が対内的には最高、対外的には独立であるという最高独立性、③国の政治のあり方を最終的に決定する力ないし権威(最高決定権)、という三つの意味で用いられる。①の用例としてはポツダム宣言8項の「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」が、②の用例としては憲法前文第3段の「自国の主権を維持し」が、③の用例としては前文第1段及び1条にいう国民主権が挙げられる。したがって、主権が多義的であり国民主権・国家主権のほかに国家権力そのものを意味する場合があるとする本肢前段は正しい。そして日本国憲法は、①の意味の主権すなわち国家権力そのものを表す語として「国権」を用いている。9条1項の「国権の発動たる戦争」とは、国家がその統治権の発動として行う戦争を意味し、41条の「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」における「国権」も、立法権・行政権・司法権を総称する統治権を指す。41条前段の「最高機関」の意義については、国権を統括する機関と解する統括機関説と、主権者たる国民により直接選挙され国政の中心的地位を占めることを強調した政治的美称にすぎないとする政治的美称説(通説)との対立があるが、いずれの立場も「国権」自体を統治権と解する点では変わらない。よって、本肢後段も正しく、本肢全体として正しい。