/ 刑法

【判例】不能犯の判断基準(危険性の判断)

不能犯に関する主要判例を解説。具体的危険説と客観的危険説の対立、未遂犯との区別基準について、判例・学説の議論を詳しく分析します。

この判例のポイント

不能犯とは、行為者が犯罪の実行に着手したが、行為の性質上、結果発生の危険が客観的に存在しなかった場合をいい、未遂犯として処罰されない。不能犯と未遂犯の区別基準については、具体的危険説と客観的危険説が対立し、判例は具体的危険説に近い立場をとりつつも、事案ごとの判断を行っている。


事案の概要

空気注射事件(最判昭37.3.23)

被告人は、被害者を殺害する意図で、被害者の血管に空気を注射した。しかし、注射した空気の量が致死量に達しなかったため、被害者は死亡しなかった。空気注射による殺人が不能犯に当たるか、殺人未遂罪が成立するかが争われた。

硫黄の粉末事件(大判大6.9.10)

被告人は、被害者を殺害する目的で、被害者の食事に硫黄の粉末を混入した。しかし、硫黄の粉末には人を殺傷する能力がなく、被害者は何らの健康被害も受けなかった。人を殺傷する能力のない物質を用いた殺人行為が不能犯に当たるかが問題となった。

ブドウ酒毒殺未遂事件との対比

被告人が被害者に毒物入りのブドウ酒を飲ませようとしたが、被害者が異臭に気づいて飲まなかった事案(方法の不能ではなく障害未遂)との対比において、不能犯と未遂犯の区別が論じられてきた。


争点

  • 不能犯と未遂犯の区別基準は何か
  • 結果発生の危険性はいかなる基準で判断されるか
  • 行為の危険性を判断する際の「判断基底」は何か

判旨

空気注射事件

注射した空気の量が致死量以下であったとしても、被害者の身体的条件その他の事情いかんによっては死の結果を発生させる危険が絶対にないとはいえないのであるから、殺人の実行行為があったものと認められ、殺人未遂罪が成立する

― 最高裁判所第一小法廷 昭和37年3月23日 昭和37年(あ)第2153号

本判決は、注射した空気の量が致死量に達しなかったとしても、被害者の身体的条件等によっては死亡する危険がないとはいえないとして、不能犯ではなく殺人未遂罪の成立を認めた。

硫黄の粉末事件

硫黄の粉末を食事に混入して人を殺害せんとしたる行為は、硫黄が人を殺傷するに足りる毒性を有せざるが故に、殺人の実行の着手ありとなすことを得ず

― 大審院 大正6年9月10日

本判決は、硫黄には人を殺傷する毒性がないため、硫黄を用いた殺人行為は不能犯に当たり、殺人未遂罪は成立しないとした。


ポイント解説

不能犯の類型

不能犯は、以下の類型に分類される。

  • 方法の不能: 行為の方法が結果発生に不適当な場合。殺傷能力のない物質を用いた殺人行為(硫黄事件)、致死量に満たない毒物の使用等
  • 客体の不能: 行為の客体が結果発生に不適当な場合。すでに死亡している者に対する殺害行為、妊娠していない者に対する堕胎行為等
  • 主体の不能: 行為の主体が身分犯の身分を有しない場合(例:公務員でない者による収賄行為)。もっとも、この場合は構成要件該当性の問題として処理されることが多い

具体的危険説と客観的危険説

不能犯と未遂犯の区別基準について、以下の学説が対立する。

具体的危険説(通説・判例に近い立場)

行為当時に一般人が認識しえた事情行為者が特に認識していた事情を基礎として、一般人の観点から結果発生の危険があったかを判断する。相当因果関係説の折衷説と同様の判断基底を用いる。

  • 空気注射事件への適用: 一般人の観点から、空気注射により被害者が死亡する危険がないとはいえないから、未遂犯が成立する
  • 硫黄事件への適用: 一般人の知識によれば硫黄には殺傷能力がないことが認識可能であるから、不能犯である

客観的危険説(少数説)

行為後に判明したすべての事情を含む客観的事実を基礎として、結果発生の危険があったかを科学的・客観的に判断する。事後的・科学的な観点から危険性の有無を判断するため、具体的危険説と比べて不能犯の範囲が広くなる

  • 空気注射事件への適用: 客観的には注射した空気の量が致死量に達しておらず、結果発生の危険はなかったから、不能犯である
  • 批判: この立場を徹底すると、結果が発生しなかった以上は常に危険がなかったことになり、未遂犯が成立する余地がなくなるとの批判がある(未遂犯の否定につながる)
学説 判断基底 空気注射事件の結論 硫黄事件の結論 具体的危険説 一般人が認識しえた事情+行為者が認識した事情 未遂犯 不能犯 客観的危険説 客観的事実のすべて(事後判断) 不能犯 不能犯

絶対的不能と相対的不能

かつての学説は、不能犯を絶対的不能(結果発生が絶対に不可能な場合)と相対的不能(結果発生が偶然の事情により不可能であった場合)に区別し、前者は不能犯、後者は未遂犯とする見解があった。

しかし、この区別は基準が不明確であるとの批判を受けており、現在では具体的危険説や客観的危険説に代替されている。もっとも、判例の中には実質的にこの区別に近い判断を行っているものもあるとの分析がある。


学説・議論

具体的危険説に対する批判

具体的危険説に対しては、以下の批判がある。

  • 判断基準の主観化: 「一般人が認識しえた事情」を基礎とすることは、事実上、行為の外観のみで危険性を判断することになり、客観的な危険の有無とは無関係に未遂犯が成立しうるとの批判がある
  • 「一般人の知識」の不確定性: 一般人がどの程度の科学的知識を有するかは一義的に確定できず、判断者によって結論が左右される可能性がある
  • 印象説との類似: 具体的危険説は、結局のところ「一般人が危険と感じるかどうか」という主観的印象に依拠しており、科学的根拠に乏しいとの指摘がある

客観的危険説の修正

客観的危険説に対する「未遂犯の否定につながる」との批判に応えるため、修正された客観的危険説が提唱されている。この見解は、客観的事実を基礎としつつも、仮定的な事実の変更(例えば、注射した空気の量がわずかに多ければ致死量に達していたかどうか)を考慮することで、不能犯の範囲を限定しようとする。

もっとも、「どのような仮定的事実の変更が許されるか」という問題は、結局は規範的判断に依拠せざるを得ないとの批判がある。

実行の着手との関係

不能犯の問題は、実行の着手(刑法43条)の問題と密接に関連する。実行の着手が認められるためには、結果発生の現実的危険性が必要であるとする実質的客観説からは、不能犯の場合は実行の着手が否定される。したがって、不能犯の判断は、実行の着手の判断と実質的に重なる部分がある。


判例の射程

空気注射事件の射程

空気注射事件判決は、致死量に満たない物質を用いた殺人行為について殺人未遂罪を認めたものであり、方法の不能の場合における具体的危険説の適用を示した判例として重要である。本判決の射程は、致死量に達しない毒物の投与、殺傷能力の低い凶器の使用等、方法が不十分であるが結果発生の可能性が完全には否定できない場合に及ぶ。

もっとも、硫黄事件のように結果発生の可能性が科学的にまったく認められない場合には、空気注射事件の射程は及ばず、不能犯として処理される。

客体の不能への適用

客体の不能(すでに死亡している者を殺害しようとした場合等)について、判例は明確な基準を示していない。具体的危険説からは、一般人の観点から客体が存在すると認識しうる状況であれば未遂犯が成立しうるが、客体の不存在が明白な場合は不能犯となる。


反対意見・補足意見

空気注射事件判決には個別の反対意見は付されていない。もっとも、本判決の結論については学説上の批判があり、特に客観的危険説からは、致死量に達しない空気注射について未遂犯を認めることは行為の危険性を過大に評価しているとの評価がある。


試験対策での位置づけ

出題科目と重要度

不能犯は、司法試験・予備試験の刑法(刑事系科目第1問)において重要な論点である。未遂犯の成否と直結する問題であり、実行の着手の判断基準と併せて理解しておく必要がある。出題頻度は高くないが、出題された場合は危険性の判断基準について正確な論証が求められる。

出題実績

司法試験論文式では、客体の不能や方法の不能が問題となる事案が散見される。短答式試験では、具体的危険説と客観的危険説の判断基底の違い、各事例への適用結果の違い、絶対的不能と相対的不能の区別が頻出である。特に、空気注射事件と硫黄事件の結論の違いを正確に理解しているかが問われる。

関連論点との接続

不能犯は、実行の着手の判断基準(実質的客観説等)、因果関係論(条件関係の判断)、中止犯との関係で問われることが多い。特に、結果が発生しなかった理由が行為の不能性にあるのか外部的な障害にあるのかの区別は、不能犯と障害未遂を分ける実際上の重要なポイントである。


答案での使い方

具体的危険説に立つ場合の論証

「甲の行為が不能犯に当たるか、殺人未遂罪が成立するかが問題となる。不能犯と未遂犯の区別基準については、行為時に一般人が認識しえた事情及び行為者が特に認識していた事情を基礎として、一般人の観点から結果発生の危険があったかを判断すべきである(具体的危険説)。」

「本件において、甲は被害者の血管に空気を注射したところ、注射した空気の量は致死量に達していなかった。しかし、一般人の観点から見て、空気注射により被害者が死亡する危険が絶対にないとはいえないから、結果発生の具体的危険が認められる。したがって、不能犯には当たらず、殺人未遂罪が成立する。」

客観的危険説に立つ場合の論証

「不能犯と未遂犯の区別は、行為後に判明したすべての客観的事情を基礎として、科学的・客観的に結果発生の危険があったかを判断すべきである(客観的危険説)。本件では、注射された空気の量が客観的に致死量に達しておらず、結果発生の科学的危険はなかったから、不能犯に当たり殺人未遂罪は成立しない。」

答案記述上の注意点

  • 判断基底を明確にする: 具体的危険説か客観的危険説かに応じて判断の基礎となる事情が異なるため、どの事情を基礎とするかを明示する
  • 危険性の有無を具体的に論じる: 抽象的に「危険がある」と述べるだけでなく、なぜ危険があるのか(又はないのか)を具体的に論じる
  • 結論として罪名を特定する: 不能犯と判断すれば無罪、未遂犯と判断すれば未遂罪が成立することを明示する

重要概念の整理

不能犯の判断基準に関する学説の比較

学説 判断基底 判断時期 不能犯の範囲 問題点 具体的危険説 一般人の認識可能事情+行為者の特別認識 行為時 狭い(未遂認定が広い) 判断の主観化 客観的危険説 客観的事実のすべて 事後的 広い(未遂認定が狭い) 未遂犯の否定につながる 修正客観的危険説 客観的事実+仮定的変更 事後的(修正あり) 中間 仮定的変更の範囲が不明確

不能犯の類型と各説の帰結

事例 具体的危険説 客観的危険説 判例 空気注射(致死量未満) 未遂犯 不能犯 未遂犯 硫黄の粉末混入 不能犯 不能犯 不能犯 死体に対する殺害行為 一般人が死亡を認識しえない場合:未遂犯 不能犯 事案による 空の金庫に対する窃盗 一般人が空と認識しえない場合:未遂犯 不能犯 事案による

発展的考察

不能犯と迷信犯の関係

不能犯と類似する概念として迷信犯(呪術等の超自然的方法による犯罪の試み)がある。迷信犯は、行為の性質上結果発生の可能性が科学的にまったく存在しないため、いずれの学説からも不可罰とされる。不能犯と迷信犯の境界は必ずしも明確ではないが、一般に、行為が科学的に認められた因果法則の範囲内にある場合は不能犯の問題となり、科学的因果法則の範囲外にある場合は迷信犯として処理される。

現代的な不能犯の問題

科学技術の進展に伴い、不能犯の問題は新たな局面を迎えている。例えば、サイバー攻撃において技術的に不可能な攻撃を試みた場合偽薬を毒物と誤信して投与した場合など、現代特有の不能犯の問題が生じている。これらの場面では、「一般人の知識」の水準が問題となり、具体的危険説の判断基底の設定に困難を伴う。

実行の着手論との統合的理解

近時の学説では、不能犯の問題を実行の着手の問題に統合して理解する見解が有力に主張されている。すなわち、実行の着手が認められるためには結果発生の現実的危険が必要であり、この危険が認められない場合は実行の着手が否定され、不能犯として処理されるとする。この理解によれば、不能犯は独立の問題領域ではなく、実行の着手の判断の一場面として位置づけられる。

国際比較の視点

ドイツ刑法23条3項は、不能犯について明文の規定を有し、「行為者が著しい無知に基づき行為が結果を惹起しえないことを見誤った場合」には刑を免除又は減軽できるとしている。日本刑法にはこのような明文規定がなく、不能犯の処理は解釈に委ねられている。比較法的にみて、不能犯の立法的規律は各国で大きく異なっており、日本法の解釈にも示唆を与える。


よくある質問

Q1: 不能犯と未遂犯の違いは何ですか

不能犯は、行為の性質上結果発生の危険が存在しなかった場合であり、不可罰である。未遂犯は、結果発生の危険は存在したが、結果が発生しなかった場合であり、刑が減軽されうる(43条本文)。両者の区別は、結果発生の危険の有無という点にある。

Q2: 具体的危険説と客観的危険説のどちらで書くべきですか

具体的危険説で書くのが一般的である。判例が具体的危険説に近い立場をとっているとされるためである。もっとも、客観的危険説(特に修正客観的危険説)で書くことも可能であり、理由づけが説得的であれば評価される。

Q3: 空の金庫を開けようとした場合は不能犯ですか

判断基準による。具体的危険説からは、一般人の観点から金庫の中に財物が存在すると認識しうる状況であれば、結果発生の危険が認められ窃盗未遂罪が成立する。客観的危険説からは、金庫が空であったことが客観的事実である以上、結果発生の危険はなく不能犯となる。

Q4: 殺傷能力のない模造拳銃で脅した場合は不能犯ですか

強盗罪の暴行・脅迫としての効果(反抗の抑圧)は被害者の心理状態に対する影響であるから、模造拳銃であっても被害者が本物と誤信して反抗を抑圧された場合には、強盗罪の実行行為としての危険性が認められる。この場面は不能犯の問題というよりも、脅迫行為の実質的評価の問題として処理されることが多い。

Q5: 不能犯は中止犯になれますか

なれない。中止犯(43条但書)は「犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった者」が「自己の意思により犯罪を中止した」場合に適用される。不能犯は実行の着手が否定されるため、中止犯の前提を欠く。不能犯であれば犯罪そのものが不成立であり、中止犯を論じる余地はない。


関連条文

犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった者は、その刑を減軽することができる。ただし、自己の意思により犯罪を中止したときは、その刑を減軽し、又は免除する。

― 刑法 第43条


関連判例


まとめ

不能犯と未遂犯の区別は、行為の危険性の判断基準をめぐる問題であり、具体的危険説と客観的危険説の対立として議論されてきた。判例は具体的危険説に近い立場をとり、一般人の観点から結果発生の危険が認められるかどうかを基準に判断している。空気注射事件では致死量に満たない空気注射について殺人未遂罪を認め、硫黄事件では殺傷能力のない物質の使用について不能犯とした。不能犯の問題は実行の着手の問題と密接に関連しており、処罰範囲の適切な画定という観点からの理論的検討が引き続き求められている。

#最高裁 #未遂 #重要判例B

論文式対策

論証カードで刑法の論点を整理

重要判例と学説の整理に。論証カードで刑法の論点をスキマ時間に定着させましょう。

論証カードを見る 無料でアカウント作成
記事一覧を見る